ニュートリノは考える

まじめにふまじめ

【テニプリ】無我の境地についての補足(勉強ノート)

 

はじめに

注意

 このブログは前回のブログで書ききれなかった内容を補足説明(+感想)や、勉強したところまでをまとめたものです。お手数ですがまずは前回のブログをご覧ください。見ていただいた皆様、本当にありがとうございます。励みになります。

 

 このブログは前回より難易度が上がります。仮説を立てて外れたものを調べたところまで書いています。 また、かなり時間が限られていたので、誤字脱字いつも以上に日本語がおかしいところが多いと思います。申し訳ない。あと前よりやりたい放題です。

 

 なお、ここに記述する内容としては以下を含みます。

 

 早速始めます。さあ、油断せず行こう!

テニプリの無我の境地について再考

出典:テニスの王子様 コミックス42巻より

三つの扉について

 前回考察した無我の境地の奥に実は三つの扉がある。それぞれ「天衣無縫の極み」「才気煥発の極み」「百錬自得の極みである。以下はそれらを整理するとともに、今回学習した範囲で説明できるかを試みた軌跡である。

 

天衣無縫の極み

ウィルバーの意識の発達段階

 まずは乾の分析である。乾いつも分析してくれてありがとう。

「無我の力を身体の内側に埋め込み何らかの形で全く無駄なく身体の必要なところに放出して増幅爆発させる」
(Genius 378 乾の分析)


 何らかの形というのは非常に気になるが、次に南次郎の解説である。ご存じの通り、南次郎は天衣無縫の極みを使用できる。

 (桃城に南次郎の息子だから資質があり、天衣無縫になれたと話されたときの回答)
「『天衣無縫の極み』なんてもんは最初っから無ーよ。無ぇっちゅーか…そーだな。天衣無縫なんてもんは誰もが持ってるもんだぜ」 


「テニスを始めたとき日が暮れるのも忘れ夢中にやったろ。どんなにやられても楽しくてしょうがなかった。あんときはだれしも天衣無縫なんだよ。それが部活やスクールに入って試合に勝たなきゃいけねぇ 勝つ為にミスを恐れて安全なテニスを覚えやがる。いつしかどいつもこいつもあん時の心を忘れちまう」
(Genius 378 南次郎)

 つまり誰もが持っていて※、初心になって楽しむことが天衣無縫の極みだと考えられる。


 そこで、ウィルバーの意識の発達段階(図を参照)の最終段階の非二元段階について着目した。その前段階の「元因的段階」を前回無我の境地の状態ではないかと示したと思う。


 ここでももうすでに覚りの段階だと本[1]にも書かれているが、これは般若心経での「色即是空」の状態で、空(≒無我)に到達したものだ。しかし、ここで終わりではない。「空即是色」とあるようにもう一度この世界に戻ってくる必要がある。その状態が「非二元段階」である。

 

「非二元段階」の説明は以下である。

 多様なものが実は宇宙であり、一なる宇宙はそのまま多様な存在であるというところまで見えてきた段階
 もうこんなわかりづらい文章じゃ理解に苦しむと思う。私もこれだけではわからない。他にも本に記述があったので端的に表すと「いったん無我を得た自我がもう一度現れる」ことだ。これがテニスを楽しむという初心に戻ったリョーマ「テニスって楽しいじゃん!」に関連するのではと考えた。…が違うかもしれない。念のため記述した。
 


 また、坐禅指導の際に覚ることを「赤ん坊になること」と話している和尚もいるらしい。こちらの方が天衣無縫に近いだろうか。

 

 ※誰もが持っているというところにも非常に興味を持った。なぜなら「白隠禅師坐禅和讃」で似たような供述があったからだ。

 衆生本来仏なり 水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の他に仏なし 衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ

 つまり「私たち凡夫は元来仏ではあり、自我が融ければ仏だ。それなのに私たちはそれを知らず、遠くに求めてしまっている
 ということである。天衣無縫も皆自分の中にあるとは気が付かなかった

 

 蛇足だが発達心理学に興味がある方に、ピアジェをお勧めしたい。新生児から自我が確立するまでを研究していた。今回無我について調べるにあたって頻出したがとても興味深かった(小並感)。

才気煥発の極み

出典:志岐幸子 『トップパフォーマー達の「ゾーン体験」に見る「感性」の再考』, 人工知能学会誌 28巻6号 (2013), pp.862-871

 才気煥発の極みの不二の分析が下記である。不二君もいつもありがとう。

「頭脳の働きを活性化させることにより、どのような打球をどう打てばどこに返ってくるかを一瞬でシミュレートできるから何打目で決まるのかが彼の頭の中では見えているということじゃない」
(Genius 312 不二)


 なるほど、霊性的な未来予知ではなく、一瞬のシミュレートで打球を予測して結果が分かるというものか。いや十分霊性的だが。


 こちらは前回も載せた表(再掲)で16番「色の認識」に近いかもしれない。こちらの例では色の認識とあるが、今までの経験による直観で感覚的にシミュレーションして、結果を予測したのだとも考えられる。


 霊性的な分析の方も検討したので記す。一応前回載せた論文の霊性的体験はほとんど当てはまりそうなので乱用したくない表5(「ゾーン」を知るための感性的特性)の11番に「透視・透聴・予知」という現象が起こるので、そのたぐいかもしれない。もしくは、先ほど再掲した表の(「ゾーンにおける感性的体験」の具体的事例)の17番にサッカーの監督が「試合前に、すべてをコントロールしていて、勝つということがわかった」とあるので、ある程度予知は可能かもしれない。何球打てばそのゲームが終わるとかは中々難しいと思うが…。
 というか、透視現象がゾーン状態であるのなら、王国の王様たちのスケスケはゾーンなのか…?跡部様はわからないが、坐禅やってたし日吉王国は服だけスケスケしているので、透視かもしれない。やめろ!隠せ!

 

百錬自得の極み

 百錬自得の極みの説明は真田がしてくれた。真田は無我の境地を考察するにあたってとても参考になったよ。ありがとう。真田は無我の境地について研究してくれているのだろうか。

「無我の爆発的に溢れるパワーを左腕1本に集めることにより威力・回転等を倍返しで返球でき、さらに副作用の疲労も最小限に抑えられる」
(Genius 272 真田)

等、似たような説明多数


 結論から言う。これは本当にわからなかった。見当もつかない。

 同調でも述べた通り、もしかしたら仏教でいう「手放す」ことにより、どこか一点にパワーを集中することができるのかもしれない。が、私は経験もないし、学習範囲ではそういった現象も記述がなかった。残念無念…。また来週ーーーっ!!

 

他選手の技の使用範囲について

 無我の境地については(なんとなく)まとまったと思う。しかし、解せないのはその範囲だ。おそらく羽生選手の場合は会場内での心のつながりだったようだが、テニプリ内では会場にいないと思われる選手たちの技も出せていた


 宇宙と繋がるのだから、試合会場内に留まらないとは思う。しかし、今回の学習範囲では記述が見当たらなかった。そのため予想としかならないが、縁を頼りにある程度出せる技が絞られた可能性はある。

 つまり同調と同様の理屈である。黄金ペアの絆は凄まじいものなので、あれほど拘束力はないと思うが、もしかしたら知らない選手の技でなく、膨大な宇宙からある程度範囲を絞って繋がっている可能性があると考えた。


 もしくは、論文[4]には「自分への声援以外の音は一切聞こえない」などの選択的注意について記述があるため、ゾーン状態時にはある程度絞られると思われる。絞る対象が大きく異なるので、本当にできるかわからないが…。

 

テニプリ外のこと

宇宙と集合的無意識について

 前回のブログではテニプリとそんなに関係なかったため、宇宙と集合的無意識の関係について記述を避けた。ただ、ゾーン状態と仏教の言う無我の境地の関連性を見出すには必要だと思うためここで記述する。
 
 研究ノート[9]で「ゾーン状態は、国内外で禅における無我の境地や悟りの境地と同様の状態と捉えられることが少なくない」との記述があった。そのため、やはり「ゾーン状態≒無我の境地」が成り立ちそうである。しかしちょっと待ってほしい。

 ウィルバーは「心理学や東洋宗教も心について色々主張しているが、そこには対立が生じる。しかしそれは違うスペクトルのものを見ているだけである。心全体を明らかにするうえでは補い合う必要がある」と発言していた[10]。簡単に言うと大きい括りでみれば同様のものであるが、より細かく見れば見れば階層が違うものだろうというものだ。ただ、関連性があることはほぼ間違いない。
 上記の説明で「電磁波のスペクトル※1」というものがある。X線も赤外線もγ線も電磁波の一種だが、電磁波の波長(もしくは周波数)が異なる。そのため性質も全然違う。つまり、電磁波というだけで同じものだと議論してはいけないということだ。ただ、波長は違えど元は同じもの。電磁波のすべてを明らかにするには補い合いうるものである。そのため喧嘩せずに丁寧に見てあげないといけない。


 ウィルバー曰く集合的無意識より宇宙のほうがもっと深いところにあると示している。 もし、[4]の論文が主張するように、ゾーン状態集合的無意識と大きく関係があるのであれば、上記より厳密にいうと深さが異なる。そのため、ウィルバーのこの主張を単体だけ真とするのであれば広い意味では少なくとも「"浅い"ゾーン状態※2≠仏教の無我の境地(宇宙と繋がる)」となるだろう。しかし、研究者レベルでも困るくらい様々な説があり、検証もかなり難しいため、わからない。前回のブログは一説としていただけるとありがたい。

 

 ※1電磁波スペクトル誰がわかんねん!って感じだったので、可視光(光)で説明する。赤い光も青い光その他の色も光だが、波長が違う。それを一緒にして信号機のライトを作ろうとしているようである。事故が発生してしまう。


 ※2"浅い"ゾーン状態としたのは、深いとやはり宇宙と一体化する可能性があるかもしれないと考えたからだ。集合的無意識より深いところに行く可能性も十分にありうると思う。しかし、これを確かめるためには深いゾーンと仏教の無我の境地の両方を体験して確かめないといけない。無我の境地になれるのは臨済宗でいう老師レベルだろうか。超困難である。
 今回文献を参照させていただいた先生方も、両方経験しているとは言い切れないため、結局は「わからない」となってしまう。

所感

無我についての探求について

 今回、無我の境地を調べるにあたり、最初は仏教から入ったが、かなり行き詰まりを感じた。仏教では唯識学があるとはいえ「無我とかなにか」について探求するために修行するわけでないからである。つまり手段であって目的ではない

 それに比べ、ウィルバーなどのトランスパーソナル心理学はどちらかというと解明することが目的であったので、主に使わせてもらった。

 私も無我とは何かを質問したところ大変ありがたい事に臨済宗の和尚に一時間ほど時間を頂いた。本当はそれ自体が何かという話を伺いたかったが、頭で考えることよりも感覚でつかむ方がいいと、8割くらいどうすれば無我になれるかを主に説いていただいた(坐禅の他にはサーフィンや山登りがいいらしい)。勉強になったが残念無念。

 おそらく本気で多くの僧侶が探求すれば、ウィルバーなどと同じような結果になったと思う。けれども、何度も言うように、仏教ではそこがメインとなるところではないと思われる。

 

それ以外の感想(というか主張)

 私自身、スピリチュアル的なことはかなり苦手であまり信じない。坐禅によって自分が体験したことなどは信じざるを得ないが、それでもまだ解明されていないだけだと思っている。あるいは脳の伝達物質(エンドルフィン)とかがなんかなってるとか。

 正直スピリチュアル的な事の99%の物は捏造だと思う。ほとんどの人が現実で感じられないから嘘を言い放題だからである。

 そのため今回の題材もどの本、どの論文でどれを真として進めたらいいか非常に迷った。科学の場合道は色々あれど、辿り着く答えは一緒だ。所謂文系(なのか?)のレポートは、一般教養でしか書いたことがなかった。そのためわかってはいたがとてもとても難しかった。大石…けっこう(とても)文系科目の考察って大変なのね──── 。

 自身の体験があったので、所謂無我という状態になるのは脳の作用がどうかわからないけどとりあえず現象としては真であることは確かめられた。そのため、今回の件を勉強し考察した。

 しかし、仏教以外のことはほぼ初学だった。仏教も勉強してから一年経ってない(それも哲学として学んでいたし今でもそう)。ごめんなさい、坐禅しながら勉強します。
 トランスパーソナル心理学とかも楽しいけど、しばらくはテニプリや科学、美術に浸かりたいです…。疲れた…。

 

 

超蛇足~友人との会話~
「(何年後かに"検索"で誰かが見てくれたとして)なんか書いていることが間違ってたら見てくれてる人が推しに嫌な印象が残ってしまうのが嫌だった。だからめちゃくちゃ書きたかったけど推しは誰かって書かなかったし、推しの素晴らしさを語らなかったんだよ」
「いや…一箇所だけ明らかに発狂してたから見た人わかると思うよ…」
「……………」

 

 

参考文献

[0]許斐剛(1999-2008) . 『テニスの王子様』全42巻 .集英社
[1]岡野守也(2001) . 『自我と無我―「個と集団」の成熟した関係』 .PHP研究所
[2]横山紘一(2016) . 『唯識の思想』 .講談社
[3] 志岐幸子 『トップパフォーマー達の「ゾーン体験」に見る「感性」の再考』, 人工知能学会誌 28巻6号 (2013), pp.862-871.

[4] 志岐幸子, 福林徹 『いわゆる「ゾーン」における感性的体験に関する一見解』, トランスパーソナル心理学/精神医学Vol.13 No.1 (2013), pp.114-130.

[5]“ゾーンに入る”.フィギュアスケート応援(くまはともだち).2023-09-07. https://ameblo.jp/inakoshi17/entry-12819516328.html, (2023-11-08アクセス)

[6]“無我の境地”.テニプリの宮.2013-1106. https://tenipuri-miya.com/%E7%84%A1%E6%88%91%E3%81%AE%E5%A2%83%E5%9C%B0/, (2023-11-07アクセス)

[7]“天衣無縫の極みについて考える_人生のたどり着くべき場所への到達”.超解釈テニスの王子様 人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ).2019-01-05. https://namimashimashi-tpot-373.hatenablog.jp/entry/2019/01/05/032649, (2023-11-07アクセス)

[8]ケン・ウィルバー(著)加藤洋平(訳),門林奨(訳)『インテグラル理論 多様で複雑な世界を読み解く新次元の成長モデル』.日本能率協会マネジメントセンター

[9]志岐幸子 『「ゾーン」を見据えた感性教育プログラムの開発―スタンフォード大学における取り組みを参考に―』, (2023),(研究ノートのため論文ではない)

[10]岡野守也(2000)『トランスパーソナル心理学』.青土社 

文献著者偏ってる‥。

 

【テニプリ】無我の境地とは何だったのか -仏教的視点での考察

  • 序論
    • ⚠注意⚠
    • テニプリっていいな
    • 無我の境地とは?
  • 概要
  • 無我に関するあれこれ
    • テニプリ内での無我の境地について
    • 仏教内での無我について
    • 結局関係あるの?
  • 考察
  • 結論
  • 謝辞
  • 付録
    • ウィルバー理論について
      • コスモスのホラーキー構造について
      • 意識の発達段階について
    • テニプリに登場する他の現象と無我について
      • 同調(シンクロ)
      • 不二VS切原戦の不二について
  • 参考文献

序論

⚠注意⚠


 このブログには仏教・ゾーンなどの記述がありますが、専門外の者が書いています。なるべく文献に沿って記述いたしますが、間違いがあるかもしれません。ご留意ください。

 

テニプリっていいな

出典:テニスの王子様 コミックス29巻より

 この世界にはテニスの王子様という素晴らしい作品が存在する[0]。しかも私達は幸運にもその作品と同じ時代に生きている。まだ見たことがないという方は非常に幸運だ。初心であの楽しさを味わうことができるのだから。
 
 ご存知ない方のために一応説明しよう。殆どのご存じの方は「無我の境地とは?」まで飛ばしてください。

 テニスの王子様とは1999年32号より連載開始された漫画であり、名前の通りテニス漫画である。2008年14号の終了まで約9年間連載された。2020年12月時点で累計発行部数は6000万部を突破しており、テニス人口の増加に大きく貢献し、2.5次元演劇ブームの先駆け的存在にもなった。なお、続編は令和5年現在連載中である。(Wikipedia参照)
 
 内容も面白いが何よりキャラが魅力的、作品に関するメディアミックスすべてのエンタメ力の高さ、作者や作品に関わる方々のサービス精神などがすごい。明らかに他作品を凌駕する。また、ファンの方も面白い印象がある(私調べ)。

 もう連載開始から25年近く経つこの作品だが、今でもかなり人気だ。私のような新規のファンもいる。さらに現在でも同人即売会イベントも行われていて、二次創作活動なども盛んである。

 

 私事で恐縮だが、私はごく最近ハマった。セカイ系ばかりでスポーツ系は全く見ない私でもめちゃくちゃハマった。熱中するものなど少なくなってきたと思った矢先、なにかに取り憑かれたようにハマった。最高の推しもできた。何とは言わないが、ぎりぎり若者認定されるくらいの歳で初めてなにか(?)の扉も開いてしまった。人生に光が差し込んだが、時間と貯金は減る一方だ。めちゃくちゃ最高。スーパーインドアライフ。パーフェクトオタクライフ。本当にありがとうございます。

 

 テニスの王子様の魅力について語ることはこれくらいにして、本題へ移る。

 

 

無我の境地とは?

出典:テニスの王子様 コミックス26巻より

 テニスの王子様(以下テニプリ)では、無我の境地という現象が出てくる。テニプリ内での無我の境地とは、簡単に言うと身体が無意識に反応してしまい、他選手の技を使用することができたり、身体能力が上がる現象である。
 
 まず無我というと思いつくのは仏教である。無我(≒空)は仏教ではとても大事な思想である。

 また、テニプリは仏教と関わりが強いと考えられている。主人公の越前リョーマの実家は寺である(父は代理住職のようだが)。その他もあるが、本題から反れるので割愛する。
 
 そこで仏教の無我の境地というものと、テニプリの無我の境地が関係あるのかと疑問が湧くと思う。
 しかし、関係あるのかは簡単にはわからない。なぜなら無我状態を含めた仏教体験は言葉で表すのが非常に難しく、定義できないからである[1]。
 ただ、無我というものを限界まで言葉で表現したものがあった。唯識学である。


 唯識学とは大乗仏教の教学の1つであり、唯識とは
「唯だ識、すなわち心だけしか存在しない。自分の周りに展開する様々な現象は、すべて根本的心、すなわち阿頼耶識(アーラヤ識)から生じたもの、変化したものである」
と主張する思想である[2]。
 これだけで分かる方はそう多くないはずだ。しかし、本当に説明するとブログ一個分以上になるので、大変申し訳ないが理解したいという方は参考文献の本を読んでいただきたい。
 
 私は唯識学を本で学びながら、禅体験を行った。その結果、テニプリでの無我の境地との関連性が見えてきた
 そのため、このブログでは、テニプリ内の無我の境地と仏教での無我について整理するとともに、仏教的視点で無我の境地の説明ができるかを記述する。


 また、私の禅体験や、友人たちの話、ゾーンに関する論文を読んでいると、スポーツでまれに起こるゾーン状態と仏教の無我状態はほぼ同一のものと考えた。そのため、ゾーン状態≒無我状態と仮説を立て、考察を行った。
 
 なお、新テニスの王子様でも無我の境地について記述はあるが、今回考える範囲は無印(テニスの王子様)の範囲とする。

 

 

概要

 まずはそれぞれの用語について整理した。それらより、テニプリ内の無我の境地の記述と仏教のそれについて、直接的な関連はないと考えられた。そのため、仏教的視点からテニプリ内の無我の境地を考えられるか考察した。

 次にテニプリファンの間では無我の境地の正体だと言われてきた、スポーツのゾーンの現象について整理した。そこから仏教の無我状態に起こる現象と、ゾーン状態の現象は近いことが分かった。それより、テニプリ内のその現象を、ゾーンに入った状態と同一(もしくは近いもの)と仮定すると、仏教的な視点でテニプリ内のその現象は説明可能なことが分かった。

 

 

無我に関するあれこれ

テニプリ内での無我の境地について

 まず、用語を整理する。まずはテニプリ内で定義される無我の境地についてから記述する。いくつか情報がある。


 

「頭で考えて動くのではなく、身体が実際体験した記憶なども含め無意識に反応してしまう。いわば己の限界を超えた者のみがたどり着く事のできる場所だ」
(Genius 222 真田)

 

「脳裏に焼き付いた様々な選手のプレーを身体が直接反応し、ランダムに放出する事で予測不能な動きを実現している。」
(Genius 301 跡部)

 

「頭で考えて動くとじゃなくて身体が実際体験した記憶で無意識に反応するもんたい」
(Genius 311 千里)

 


 
 また、無我の境地になった際の副産物として、真田はこうコメントしている。

 

 「脳からの伝達ではなく、イメージとして焼き付いたものに身体が直接反応して動いてしまう。本来できないものを限界を超えてやっているのだ。その反動としてものすごい体力を消耗する。そしてそれは一気に身体に襲い掛かる。」
(Genius 227 真田)

 

 他にも記述はあるが、説明が似ているため割愛した。

 

 このことより、テニプリ内の無我の境地の時の状態は、
身体反応で直接反応し、ランダムに他選手の使った技が出せるが、限界を超えてやっているため、体力消耗が激しい
 といったところか。

 

仏教内での無我について

 次に無我とはなにかということを仏教(唯識学)で説明すると下記である[1]。

  • エゴイズムを超えること
  • 実体としての個は存在しないこと(結局すべては一つであると悟ることを一如という)
  • 実体視・絶対視され、執着の対象となるような自我の観念が無くなること
  • すべての存在と限りなくつながりあいながらある一時期あるかたちを表しているものとしての私という目覚めが生まれること
  • 宇宙と自分とが一体なのだと本当に心の底からわかること(凡夫⇒仏陀になる)


 つまり仏教(唯識学)内での無我の境地は
自我を超えて、宇宙と自分とが一体であり、すべてのことと繋がっているのだと悟ること
 だと思われる。
 

結局関係あるの?

 テニプリ内の無我の境地の時の状態は、
身体反応で直接反応し、ランダムに他選手の使った技が出せるが、限界を超えてやっているため、体力消耗が激しい

だった。

 

 また、仏教では無我の境地は

自我を超えて、宇宙と自分とが一体であり、すべてのことと繋がっているのだと悟ること

だった。

 

 

 

 上記よりほぼ繋がりがないと考えられる。


 
 …とするとここで話が終わってしまう。

 そこで仏教の視点からテニプリ内の無我の境地の状態のようなことは起こるのかということを考察する。
 一応断っておくと王子様や王様(キング)が言っていることは間違いと言っているわけではない。彼らが言っていることが全てだと思われる。ただ、仏教的にこの現象が説明できるかを検証したい。さあ挽回だ!

 

考察

選手たちは宇宙を悟るか?

 仏教では無我の境地は「自我を超えて、宇宙と自分とが一体であり、すべてのことと繋がっているのだと悟ること」だった。
 ここで捕捉すると、仏教の言う宇宙の一体化というのは物質的なものにとどまらず、生命や心とも繋がっていることである[1]。
 
 また、テニプリ内では、無我の境地に至ると他の選手の技を出せるということもあった。
 このことから、宇宙と一体化していることを悟れば心が繋がり、他の選手と繋がり、選手たちの技が使えるようになるのでは?と考えた。

 

 いやいや流石に宇宙と一体化していることを悟っても他人の技は出せんだろう、と思うのは当然だと思う。
 実際私が調べた仏教の範囲でもそのような記述はなかった。しかし、スポーツでいうゾーンを調べた結果、それらは似たような現象が起こることが分かった。


 じゃあ仏教は関係ないんかい!とお考えだろう。一応繋がりはありそうなので安心していただきたい。

 

ゾーンと仏教の関連性

ゾーンについて

 まずゾーンの定義から記述する。スポーツ心理学においての記述は「緊張とリラックスのバランスが適切に取れた状態であり、高い集中力を維持するものである」とある[3]。

 また、ゾーンに入るとスポーツを行っている当事者のベストパフォーマンスを生むことに貢献する[4]。


 しかし、ゾーンに入った時の体験は1つではない。まずゾーンには浅いものから深いものまである。浅いものだと集中力が増すなどであり、深いと感性的・霊性的になる。

 

 次にプロのスポーツ選手のゾーンにおける感性的体験について、表を見ていただきたい。

「ゾーンにおける感性的体験」の具体的事例

出典:志岐幸子 『トップパフォーマー達の「ゾーン体験」に見る「感性」の再考』, 人工知能学会誌 28巻6号 (2013), pp.862-871

 

 

 表より、なにやらスピリチュアルなことがたくさん書いてある。正直信じにくい(なにをいまさら)。

 私はスポーツとは無縁の人生を送ってきた。そのためゾーンに入ったことはないので、この現象が起こったことはない。こういう現象が実際にあるかどうかを確かめるため、論文以外にもゾーンに入った時の現象についてスポーツ経験のある友人たちに聞いた。

  • 90分のレッスンが一瞬で終わる感覚があった(ヨガ)
  • 選手の間を抜くための道が見えた(サッカー)
  • 絶対勝てるという感覚があり、打つときに球の回転が見えた(野球)
  • 集中力が増した(テニス)
    (他にも数学を解いている時、森に迷ったような感覚になったとも聞いたがスポーツでないため割愛する)


 
 先ほどの表から、上記友人たちの体験でも16番、17番に近い状況であることが分かる。
 つまり、スポーツをやっていたらある程度陥る可能性のある現象だとわかる。

 

 

ゾーン状態と無我状態について

 私事で恐縮だが、私は毎日坐禅をする。始めた理由は単純で、心を落ち着かせたかったことと禅に少し興味があったからである。その際にたまに坐禅をする際にゾーンのような現象になる。おそらく無我状態である。
 言葉で非常に表しづらいが、自分の認識する1m程度の範囲が背中を含め360゜広がるような感覚である。やや深いときだと大きな木になるような感覚である。人からなんかモヤモヤしたものが見えるときもある。
 認識範囲が広がるという現象は浅いゾーン状態の集中力が増すということと似ていると思われる。また、大きな木になるというという感覚と、モヤモヤしたものが見えるという感覚は、それぞれ表の8番と10番に近いと思われる。ただ、これは無我の"境地"までは到達していないと思われる。因みに木になるという現象は、臨済宗の和尚に直接伺った。子曰く、修行していたらよくあることだとのことなので勘違いではなさそうである。

 

 また、論文には書かれていなかったが、いつかのテレビでフィギュアスケート羽生結弦選手が試合の際に起こったゾーン体験についてこう答えていた[5]。

 

眼球がどういう風に動いて
 どこを見てて、お客さんの視線が
 どこ向いてて、どういう力が働いてて
 なんか、自分はこれをこうしていけば
 跳べるみたいな。
 悪意とか、善意とか全部伝ってきます
 悪意とか善意とか全方向から。」

ameblo.jp


 
 完全には覚えていなかったのでブログを参照させていただいた。私の記憶と一致している。
 羽生選手の言っていることが真であるとする。そうすると羽生選手は悪意や善意が伝わってくると話しているため、深いゾーンに入ると仏教の言う宇宙のようなものに繋がり、心でも繋がれるということになる。

 また、論文にも無我の境地とゾーン状態の共通点が示されている[3]。
 
 それらより、下記を仮定する。

 

仏教の無我の境地≒ゾーン状態

 

ゾーン状態テニプリ内での無我の境地の関連性

ゾーン状態テニプリ内での無我の境地について

 さあ、次はゾーン状態テニプリ内の無我の境地を結び付けよう。


 

 


 …できなかった。おそらくちゃんと調べれば、ゾーンに入る状態とテニプリ内での無我の境地は同一(もしくは近い)ものだと考えられると思うが、限られた時間で調べても見つからなかった。力不足で申し訳ない。英二…限界なのか…?


 しかし、ファンの間では下記リンクのように無我の境地はゾーンに入る状況と似ていると考える方も多いと思われる[6][7]。

tenipuri-miya.com

namimashimashi-tpot-373.hatenablog.jp

 さらに、真田が言うように、限界を超えてやっているのであれば、ベストパフォーマンスにはなっていると考えられるため、ゾーン状態になっている可能性も高い。もし認識できてたとはいえ、他人の技をすぐに使えるなんて離れ業は、己の限界を超えたときにしかできないだろう。

 また、志岐らの論文[3]の表5には、ゾーンに入った状態に起こる現象を網羅的に整理しているが、ゾーンに限らずほとんどの霊性的体験は これに含まれると思うので、今回この表を理論の裏づけにすることは正直本当は避けたい。

 念のため記述すると、テニプリ内での無我の境地は「オーラ」「直感」「超人性」「他者への影響」「一体感」などが当てはまる。

 さらにこの論文にはゾーンの特性として「動きが自動的に、無意識的に行われる」という記述がある。これは、無我の境地に慣れていない選手が無意識になってしまうことや、技がランダムに出てしまうことに関係あるのではないかと考えた。

 

 一応、[4]の論文に無我の境地=ゾーンに入ることの共通点の記述がある。しかし、この論文に記述がある無我の境地とテニプリ内のそれを似た現象言葉が一緒だからと言って安易に同じものだと決めてはいけないと思う。(というかそれが成り立てば今回「仏教の無我の境地=テニプリ内のそれ」となってしまうため、このブログ内のすべてのことが無意味となる)

 

 そのためこちらも下記を仮説とさせていただく。


 
仏教の無我の境地≒ゾーン状態テニプリでの無我の境地
 

テニプリ内での無我の境地との関連性についての再考

 

上記より
 
 仏教の無我の境地≒ゾーン状態テニプリ内での無我の境地 


 と仮定する。


  
 ここでテニプリ内の無我の境地の話に戻ろう。

 

 テニプリ内の無我の境地は
身体反応で直接反応し、ランダムに他選手の使った技が出せるが、限界を超えてやっているため、体力消耗が激しい
 であった。

 

 一方仏教でいう無我の境地は
自我を超えて、宇宙と自分とが一体であり、すべてのことと繋がっているのだと悟ること

 であった。

 

 また、ゾーン状態であると、スピリチュアル的な体験をすると同時に、時には無意識になり、ベストパフォーマンスを発揮できる

 


 
 このことから、仏教とゾーン状態を元に考えると無我の境地に達した選手は

宇宙と一体化であることを悟り時には無意識になりながらベストパフォーマンスを発揮し他選手と心と身体が繋がり限界を超えたため他選手の技を使用することができた

 と考えられる。

 こんがらがってきたので、簡素だが下記にまとめた。

無我状態・ゾーン状態テニプリ内の無我の境地の関連


 
 ※1羽生選手の例があるとはいえ、宇宙と繋がるとすべてのものと繋がってそんなことになるのか?そんな簡単に身体と心と繋がることになるのか?他選手もゾーンに入ったことがあるはずでは?浅いゾーンとか深いゾーンでどう違うのか?という疑問は最もである。これに関しては今回学習した範囲の仏教だけで説明できないが、仏教から展開していったウィルバーの理論について解説したい。(付録を参照)

 ※2ゾーン状態になった時、長い時間は入れないということをよく聞く。また、私も坐禅によって無我状態になった時の持続時間は15分程度である。その後は逆に集中力が無くなり、どうしても無我になれなくなる。この現象はテニプリ内の体力消耗が激しい(もしくは集中力がなくなる)という点に近いのだろうか。

 

 

結論

 テニプリ内の無我の境地の記述と仏教のそれについて、直接的な関連はないと考えられる。しかし、仏教とテニプリ内のその現象を、スポーツのゾーン状態と同一(もしくは近いもの)と仮定すると、仏教的な視点でテニプリ内のその現象は説明可能なことが分かった。というかほとんどゾーンで説明できるため、仏教的視点が必要が分からない。

 また、ほとんどの方がご存じの通り、無我の境地の奥には三つの扉がある。こちらに関しては検証しきれなかった。また、会場外の選手の技を使うシーンがあることから、心で繋がる範囲についても考察したが、記述できなかった。別の機会に調べたところまでメモ程度だが記述しようと思う。他にもやり残したことは多いため合わせてできるだけ記述する。

 今後もテニプリの議論が発展していくことに期待する。

 

 

2023/11/18 追記 補足を記述した。

・無我の境地の奥にある三つの扉

・無我の境地で他選手の技を使用できる範囲について

・宇宙と集合的無意識について

について考察している。興味があればこちらも見ていただきたい。

 

isolated-system.hatenablog.com

 

 

謝辞


 私はテニプリのお陰で人生が豊かになりました。原作や先生も素晴らしいですが、元々テニプリを見ていた友人達との会話やネット上での考察、公式非公式共に人それぞれの思いで描かれた作品、すべて楽しく、また非常に勉強になりました。このブログを含め、色々な事にも挑戦しようと思えました。
 今回ゾーン状態の経験を話してくれた友人達、ブログを公開する前にチェックしてくれた友人達、テニプリに関わる皆様、仏教に関わったすべての方々、また、仏教に則り、過去未来に渡ってすべての存在に感謝いたします。本当にありがとうございました。

 なお、間違いや質問がございましたら、どうぞ遠慮なくお送りいただけると幸いです。観測が難しいこのブログを見つけていただいたのも縁だと思います。テニプリに関しても超初心者なので間違っているかもしれません。よろしくお願いいたします。
 また、大変申し訳無いのですが不勉強ですので、すべてのご質問にお答えできるかわかりません。できる限りお調べして回答いたします。

 

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